千葉県と北方領土のかかわり

2月7日は北方領土の日。

千葉県と北方領土のかかわりについて紹介する。

 

①面積と距離

 北方領土の面積は約5,003㎢で,千葉県(約5,158㎢)とほぼ同じ。

また,根室の納沙布岬から一番近い貝殻島までの距離は3.7㎞で,木更津から東京湾アクアライン海ほたるまでの距離4.4㎞よりも近いことがわかる。

 

② 伊能忠敬と前田恭安

 房総の人で初めて北方領土(国後島)を目撃したのは,伊能忠敬であったと思われる。忠敬は1800年に蝦夷地に渡り,現在の別海町付近から,根室と国後島の岬の方角を遠測して位置を定め,地図に記した。

 1810年には,前田恭安(銚子の医師)が,択捉島でアイヌ人からロシア語を学び,その時に得た知識を書物にまとめている。

 

③ 佐倉藩士の調査

 1855年,幕府は蝦夷地の大部分を直轄地とし,調査を開始。

 老中の佐倉藩主堀田備中守正篤は,1856年に藩士数名を蝦夷地に派遣。調査報告書の「協和私役」には,野付半島付近から国後島の高い山並みを眺めたことや,根室で聞いた色丹島に関する話が記録されている。派遣は翌年も行われ,藩士が残した「蝦夷日記」によると,一行は国後島から択捉島に渡り,近藤重蔵が「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てたカムイワッカオイの丘をはじめ各地を訪れている。また,歯舞群島の水晶島・太楽島や色丹島の調査も行った。

 関宿藩からも派遣が行われ,国後島に渡ったという記録もある。

 

④ 醍醐新兵衛の活躍

 1858年,箱館奉行は安房勝山藩(現在の鋸南町)に対し,捕鯨化として名高い醍醐組8代目新兵衛の派遣を命じる。新兵衛らは箱館奉行所属の箱館丸に乗り,国後島,択捉島で捕鯨漁場の調査を行った。

 

⑤潜水夫のホタテ貝漁

 大正から昭和18年ころまで,県内の潜水夫が北方領土に出稼ぎに行っていた。

 富津からは,タイラギ(貝の一種)の禁漁期となる夏から秋にかけ,毎年およそ50人が国後島・歯舞群島のホタテ貝漁に出稼ぎに行ったそうだ。出稼ぎによる収入は約数千円,当時では家が一軒建つほどだった。

 また,勝浦などからも歯舞群島に出稼ぎに行っており,昭和15年ころの歯舞群島志発島では,ホタテ貝漁の潜水船12隻のうち,8隻に勝浦など夷隅郡出身の潜水夫がいたそうである。